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友人が刀剣乱舞を始めました。

 友人はどちらかと言うと可愛い女の子のキャラクターが好きなため、所謂女性向け、つまり男性ばかりが登場する作品には興味がない(と思う)。正直なところ長続きはしないだろうという予感がある。
 だがもし続くようならば、一審神者として歓迎したい。

 そもそもどうして友人が刀剣乱舞を始めるに至ったかと言えば、おそらく私が度々刀剣乱舞の話をしていたからであろう。
 本家ゲームのことというよりは、実際の刀を見に行ったことや、ミュージカル版の公演に参加したといった話がほとんどであった。
 アニメ"花丸"の映画が始まる話もその内のひとつだ。

 当本丸で聚楽第はいつぶりなのだろう?

友人と山姥切
 少し前に友人と通話をしていた時、近々始まるアニメ映画の話題になった。
 私が刀剣乱舞のアニメシリーズの1作品である"花丸"の映画が始まることを告げると、どんな作品なのかを聞かれたため、映画の公式サイトを一緒に確認することになったのだ。

友「この人かっこいいね」

 友人が指したのはホームページを飾るイラストにいる山姥切長義であった。
 かっこいい、と友人は何度か繰り返して言った。

私「うん。そう、かっこいい人だよ」

 友人はその後、キャラクターページのキャラクターの多さに驚いたり、週替わり特典を確認したりしたものの、興味らしい興味を示したのはそれくらいだったと記憶している。


 それから時間が経ち、今日である。久々に直接会って話をしていく中で「刀剣乱舞、やってみない?」と声をかけてみた。特命調査、聚楽第が復刻したからである。

 今ならあのかっこいい銀髪の人、入手できるよ。用意していた言葉はしかし、発する前に友人の快諾で出番を失った。
 あまりにもあっさりしていたので、ここ最近ずっと刀剣乱舞の話をしていたのが影響したのかもしれない。

友「ダウンロード、時間がかかるね」「オープニング飛ばせないの?」「え、またオープニング?」

私「せめて初期刀選ぶところまでは見せて」

 欲を言えば聚楽第を程度進めるところまでは確認したかったが、色々と痺れを切らした様子の友人に頼むことができたのはそこまでだった。

 初期刀選びの画面、加州をリヴァイ兵長と呼びつつページを送る友人が突如として「あ!」と大きな声を出した。

友「絶対この人!」

 指し示したのは山姥切国広…のCV欄。絶対この人だよ!と繰り返す友人を前に、私の頭を過った"とうらぶ知識ゼロが初期刀山姥切国広を連れて初イベで聚楽第…?"という悪いのか美味しいのかわからない状況に対する動揺。

私「エッ……ナ、ナンデ?」
友「だってCVが鍾離先生だよ?」

 友人は原神というゲームに登場する鍾離というキャラクターが大好きであった。そして声優に詳しかった。

 どんな理由にせよ本人が心から選んだのならそれが正解である。山姥切国広を初期刀に、友人の本丸は成った。

 私が確認できたのはそれまで。それから先は友人の気分次第だ。



振り返り
 自分の本丸の話もしよう。

 私が審神者に就任したのは6年前、刀剣乱舞のスマホアプリ版がリリースされた日のことである。

 当時、刀剣乱舞は周りで大層話題なっていたため、非常に興味があったのだが、ブラウザゲームという私が最も苦手とするゲームの一種であることを理由にプレイを断念していた。
 それがスマホアプリでリリースされる上に、非常にレアなキャラクターが2人も貰えるというのだから、始めない手はない。

 さて、そんな訳でアプリをダウンロードしたものの、地元の名を冠すサーバーが満員で選べなかったり、日本刀の知識を全く持っていないのに初期刀を選べと言われることに理不尽さを感じたり、当時理解できなかった男の娘という概念を突き付けられたりした結果、自分は開始早々に刀剣乱舞という作品に対してアンチのような感情を抱いていた。延いては、アイデアの元となった日本刀自体を嫌うようになった。

 初期刀である陸奥守吉行の「銃は剣より強し」という言葉に深く頷き、なぜ西洋の刀剣類も実装しないのかと文句を垂れ、日本刀に微塵も興味を持つことはなかった。
 しかしアプリのデータは維持し続け、数ヶ月放置することもありつつも、気分が向けば起動するということを繰り返していた。

 数年が経ち、アンチ的な感情がもはや湧かなくなった頃には、適度にキャラクターに愛着も興味も持つようになり、刀剣乱舞のストーリー性やゲーム性に欠けるところも逆に好感を抱く要素となっていた。
 常にプレイしなければ置いていかれる、というのがネットゲームきありがちな悪い点であるが、刀剣乱舞はそれをまったく気にしなくてもいいのだ。イベント限定キャラはいるが、その存在によって戦力に影響が出るということはまるでなかった。

 好きな時に、好きなように遊べるゲーム。とても気が楽だった。ただ、それ以下でもそれ以上でもなかった。

 転機はTwitterで流れてきた岡山県瀬戸内市のクラウドファンディングの情報であった。
 それまで刀剣乱舞の人気のお陰で行方不明の刀が見つかった、というような話は度々耳にしていたが、初めてリアルタイムで現実の日本刀に関する動きを知ったのだ。そして連動するように刀剣乱舞でも山鳥毛が実装された。

 これはお祭りだ、と当時の自分は思っていたと思う。
 流行りに乗っかりたいという気持ちと、純粋にこの界隈に貢献したいという気持ちとで寄付をした。そうして当事者意識のようなものが芽生えたのだと思う。途端に日本刀に興味が湧いた。
 そして刀剣乱舞という作品群を以前よりも意識するようにもなった。

 とはいえ積極的に情報収集をし始めたのかというとそうではなく、単に今まで聞き流していた、読み流していたような情報に対して、興味を持って吸収するようになったくらいだ。

 さらに自分の背中を刀剣乱舞、延いては日本刀の世界へと押した出来事がもう1つある。
 新型コロナ感染症が爆発的に広がり、ステイホームを余儀なくされていた時期、刀剣乱舞の舞台版とミュージカル版が無料配信されたのだ。
 正直、自分は2.5次元というものに興味はなかった。しかし以前よりも刀剣乱舞に興味を持ち始めていた自分は迷いなく観ることを決めた。

 刀剣乱舞はストーリー性に欠けているから良い、と前述したが、ストーリーがあるならあるで良いというのは当然だ。そしてそのストーリーの出来が優れているなら尚更。
 舞台・ミュージカル刀剣乱舞は、自分の刀剣乱舞に対して欠けた"興味"の最後の1ピースを補完するものだった。それまでどこか薄っぺらかったキャラクターたちへの印象が厚みを持ち始め、何故彼らは戦うのかという、物語の根底を理解させられた。
 そして単純に演劇そのものが素晴らしかった。これを語るには語彙力が足りないので割愛するが、演者というものはとんでもない生き物なのだと実感した。

 刀剣乱舞は面白い。心の底からそう思い始めたのはそこからだと思う。

 さて、そこまでなら極々一般的なファン、というかライト勢止まりだっただろう。しかしさらに私を刀剣乱舞の沼に沈める出来事が起こる。

 刀剣乱舞無双の発売である。

 刀剣乱舞はストーリー性にもゲーム性にも欠けているから良い、と前述したが、どちらも備わっているならいるで良い。その出来が優れているなら尚更。
 というわけで、刀剣乱舞無双は非常に優れたゲームだった。ゲーマーからすれば物足りないかもしれないが、そもそものターゲット層がアクション要素が全くない刀剣乱舞のプレイヤーであるので、百点満点中二百点は叩き出しているような正解を出している。
 システムだけではなく、ストーリーもしっかりしており、繰り返すが、キャラクターゲームとしては非常に優れている出来だった。

 なんなら私は刀剣乱舞のファンというよりは、刀剣乱舞無双のファンと言った方が良いほどに刀剣乱舞無双が好きだと言える。
 とはいえ、刀剣乱舞あってこそのコラボ無双であることは承知の上だ。

 刀剣乱舞を好きでいると大層良い経験ができる。もっと好きになりたい。

 言葉にするとなんとも邪な思いのようであるが、それが私の原動力となった。

 日本刀……刀剣についてちゃんと学ぼう。

 そうして私は玉鋼で小刀を作れる体験に申し込んだ。
 何故そこから?と思われるかもしれない。私は文献を読むのを非常に苦手としており、わからない単語が羅列するとすぐに吐き気を催してしまう。
 故に身体で覚えるというのが性に合っている。そもそも刀剣がどのように作られているのかを知らないことには、出来上がっている刀剣のことを知ることなどできないと思ったのだ。

 体験に申し込んですぐ、刀剣乱舞の方では全くの新イベントである対大侵寇防人作戦が始まった。
 前座のようなイベントはあったので、信じられないが刀剣乱舞はレイドをする気らしいと早い段階から界隈はざわついていたわけだが、まさかの予想を上回る出来事が多々起きることとなった。

 自分が数年を経て刀剣の世界へと踏み出したと同時に刀剣乱舞がそのようなことになったのだから、運命的な何かを感じても仕方のないことだろう。

 とにかく自分は(小)刀を打ち、防人作戦は無事に終わり、三日月は修行へ出て、私の刀剣乱舞は何度目かわからない始まりを迎えた。

 盆栽のようなゲームと思っていたが存外新しいものに次々と出逢わせてくれるゲームである。
 人気のためか、実在する刀があるためか、あるいは2.5次元があるためか、現実の世界で出会うことも多く、リアルとの境が曖昧な点も刀剣乱舞の面白味の1つだと感じる。

 ひとまず振り返っての記録はここまでに。望むらくは、これからも変わらぬ調子で末永く刀剣乱舞が続くことである。
2年ぶりのブログである。
読み返すとどれも恥ずかしい内容だが、どれも当時のリアルなのは間違いない。

人生色々、仕事は辛い。
周りは目まぐるしく変化しているようで、実際のところは何も変わっていない。

時間に追われる毎日の中、久しぶりに出かけて馴染みの店でアウインと出会う。

あ、あるな。
となったところで財布が空なら見送るしかない。

若い頃は何も考えず無茶をしていたものだが、今は考えて無茶をする。

存外残された時間も機会も少ないと知るのに、随分とかかってしまった。
後悔のないように過ごさなければ。

旅行のための貯金は無くなったが、
アウインは今、家にある。
気が付けば年が明けて既に春である。
また長いことブログを放置してしまった…。

年明けは散々なもので、新年早々に体調を異なる理由で3度ほど崩していた。よもや厄年ではあるまいな?と思っていたら新型コロナ騒動である。どうやら厄年なのはわたしだけではなかったらしい。

この星が、いや、人類そのものが病に侵されている。
ところで、わたしは昨年末より新しいゲームを始めた。5年程前よりサービスを開始したFate/Grand Order、略してFGOというスマートフォンゲームである。
このFGOというのはFateというゲーム及び映像、その他諸々のシリーズに属する1つの作品だ。Fate自体が誕生したのはおよそ15年以上も前で、当時自分はまだ小学生の身だった。
物心つく頃より個人コンピューターを与えられていたわたしは、ネットサーフィン中にたまたまFateというゲームのオープニングムービーに辿り着き、その格好良さに惚れた。そうしてすぐにFateという作品を調べたわけだが…あれほど大きな後悔もそうそうないと未だに思う。とにかく出てくるエロ絵の数よ!そう、Fateは所謂エロゲだったのだ。

元々自分は潔癖のきらいがあり、ディズニー映画のキスシーンですら見ていられないタイプの子どもだった…Fateが大きなトラウマとしてわたしの記憶に刻まれるのは当然の流れであったわけだ。
あと単純に世界の偉人、聖人と敬われる人々をサーヴァントなどという蔑称で呼ぶ神経が信じられない。servantという言葉は単純に使用人というよりは、奴隷に近い、マイナスのニュアンスを持つ言葉だったと思うのだが…。

つい最近まで、そうした理由でわたしはFateシリーズの作品を極端なまでに嫌っていた。それはFateがエロ要素をなくして、大衆向けのゲームとして世間的に高評価を得るゲームになっても、だ。

「だって所詮は元エロゲーでしょ?」
「偉人たちに変な設定を付けて、他所の文化に対する敬意がないのか」
「史実の男性を女体化するだなんて、馬鹿なの?」

等々…とにかくFateというゲームを見下していた。

さて、そんなわたしが何故Fateを始めるに至ったかである。
わたしがFGOをプレイしたのは今回が初めてではない。いくら嫌っているゲームシリーズとはいえ、周りがあまりにも話題にすれば気になってしまうもので、案外やってみれば印象が変わるかもしれない、やってみてもいないのに嫌うのもよくないとは思うし…そんな思いで数年前にも一度ダウンロードして挑んだことがある。
しかし、初っ端から難解なゲーム内用語の羅列、初めてのゲームシステム、ろくな説明もなされず進むストーリー…これはFate初心者向けではないな?歴代シリーズをやった人にとってはお馴染みの設定なのだろうが、これは余りにも不親切ではないか。わたしはイラッとして早々にゲームを投げた。

さて、それから数年後の昨年末、何故再びこのゲームをダウンロードし、起動に至ったか。はっきり言って気分である。なんとなく、またやってみようか等という、気紛れというか気の迷いというか…余程に暇だったのだと思う。

幸いなことに前回辞める原因の1つであったゲームシステムについては、少し前に始めていたけものフレンズ3が全く同じシステムを導入していたこともあって今回は抵抗なく順応できた。

上がけもフレ3、下がFGOだ。バトルシステムが非常に似ている、というか同じだ。

前回はなかった知識「チュートリアルガチャの当たりはヘラクレス」も役に立った、リセマラをする必要もなく、すんなりと出てきてくれた彼に気分は向上した。思い返せばわたしが前回このゲームに挑んだ時も同じように彼は真っ先に来てくれていたのだ…運命を感じると同時に、前回はその存在を疎かにしたことを申し訳なく思った。「今回は頑張ろう」心の内で小さく溢す。


前回の鬼門であった「こいつら何言ってるかさっぱりわからんし、何が起こってるかもさっぱりわからん」序盤をなんとか乗り切る。道中で状況説明が多少はされるのだが、その説明の中にも難解な語彙やら設定やらが散りばめられているので、置いてけぼり感が拭えないし、とにかく苦痛だ。この序盤を超えても暫くは「どんな銃を握らされているのか全くわからないが弾は撃てる」、そんな状態でゲームを進めることになる。

ある程度ゲームに関する知識が付き、ストーリーも興味深く思えてくる頃、「何故このゲームにはオート機能がないのだろう」という不満が出てくる。
スマートフォンゲームに限ったことではないのだが、素材を集めてキャラクターを育成するというゲームの類はどうしても「作業」というものが付いて回るものだ。特にスマホゲームはシステム上その作業が単調になりやすく、単に面倒くさいだけでなく、場合によってはとんでもない苦痛を伴う。故に作業を伴う大体のゲームはオート機能を備えている。
とはいえ、FGOはマスターと呼ばれるプレイヤーがキャラクターに指示をするのが肝であるようなゲームだ、オート機能は付けたくないのだろう。ゲームがリリースされてから5年間、導入されていないのを見るに制作陣のオート機能を付けたくないという想いは本物だ。

それでも、それでもだ、わたしだって「指一本動かさずして勝利したい」のだ。

唐突にだが、FGOの醍醐味はお気に入りのキャラを育成するところにあるらしい。
わたしはキャラクターに入れ込むことはあまりなく、世界観やストーリーを楽しむタイプのゲーマーなので、その話を聞いたときには首を傾げたものだった。所謂キャラゲーなのだとしたら、どのみちこのゲームは続かないだろうなと、前回と同様に早々に投げる結果になることを予感した。そして2度目の挫折の後に再起はないとも。

しかし運命とは奇妙なものである。前回と今回とで漏れなく駆け付けてくれたヘラクレスに対しても運命を感じたわけであるが、わたしが今回このゲームに再挑戦する数ヶ月前にとあるキャラクターが導入されたことに対して、特に運命の悪戯的なものを感じる羽目になったのだ。

そのキャラクターこそがこいつだ、名前をイアソン。ギリシャ神話の登場人物を元にしたキャラクターで、やたらに羽根が生えているのと背景のせいで天使か何かか?と思われるかもしれないが、口を開けばどっこい、恐ろしい程の小物臭を漂わせるキャラである。実際にゲーム本編において、彼はとあるステージのラスボスとして主人公と対峙するわけだが…いや、この話は置いておこう。そもそもわたしが敵としての彼を知るのはずっと後のことだ。

わたしがイアソンという愉快な男と出会ったのは、チュートリアル終了後、初のガチャの時であったと記憶している。冒頭に述べたように、わたしは最初期のFateのことであれば、キャラクターのビジュアルとその名前ぐらいは多少知っている。その中にギルガメッシュという、金の鎧に身を包んだキャラがいるわけだが、わたしにとってのイアソンの第一印象は「なんだこの劣化版ギルガメッシュみたいなのは」というものであった。
ところでこの時期、FGOの最新シナリオが少し前に配信されており、これの内容がイアソンを主軸にしたものであるらしかった。こちらが何をしていなくとも、Twitter上では度々イアソンに関する呟きが見られ、自然とわたしの中には「イアソンは人気キャラ」という認識が生まれていた。故に彼の何がいいのか、召喚後早速試してみようと早々にパーティに加えたわけであるが…

この男、面白い


というか愉快である。何がってそりゃバトルモーションである。大抵のキャラは1人で戦うもので、例外はあるものの、基本は己が身一つで戦場に出ている。しかしこのイアソンという男、攻撃時に仲間を呼び出すのである。別途武器とかを召喚するのではない、他にユニットとして実際に存在しているキャラを3人ほど呼び出して戦わせている。そして彼本人は実にコミカルな言動でその攻撃に巻き込まれている。こんなの、面白くないわけがない。そして豪華である。

この時点でわたしは大いにイアソンにハマっていた。FGO自体はシリアスなシナリオであり、世界の危機であり、人も死んでいく。この時のわたしはまだそんなシナリオの序盤にいたが、魔の序盤である。シナリオ上における事態の深刻さではなく、このゲームで何が起こっているのがを理解するのにあまりにも苦労させられている深刻さで精神が疲弊している状況である。正直世界の危機などどうでもいい。
そんな中、イアソンのバトルモーションという笑いが提供されたことは、後に事あるごとにワイバーンに妨害され、シナリオが全く進まない苦痛の中でも根気よくFGOを続けるに至る程度には重要な意味を持つ出来事であった。どんな辛い状況でもイアソンがいれば乗り切れる。あの魔の序盤において救いの手を差し伸べてくれたイアソンを、わたしは信じたのである。

イアソンと愉快な仲間たち。ヘラクレスもその一員だ。

イアソンの魅力は何もバトルモーションだけではない。マイルーム会話という、親密度に応じてキャラクターが喋ってくれる機能がこのゲームにはあるのだが、その内容も実に面白可笑しいものであり、そしてやはり救いでもあった。

どの作品においてもそうではあるが、主人公というものは重い使命を背負った者である。それこそこのゲームにおいては、主人公は人類全ての命運を握っている。
どうもこのゲームの主人公はプレイヤーであるわたしとは別に自意識を持っているようなので、その心の内をわたしが測り知ることはないが、実際のところとても正気ではいられない重圧を感じているであろうことは理解できる。人類全てを救おうというのであれば、ただの人間以上の存在に至る必要性を感じることもあるだろう。そう、つまりはヒーローに。人類のための犠牲に、生贄に。必要とあらば己の命を進んで差し出せる者に。
ところがどっこいイアソンは、俗語で言うところの生き汚さを、おそらくはどのサーヴァントよりも誇り、死人の写し身であり人でもない、しかしあまりにも人間臭いというのに英霊である彼は、主人公に向かって言い放つのである。

身を捨てて得られるものはそんなになく、しぶとく生き残ってこその人間だ。お前は英雄ではないのだから、せめてしぶとくあれ。

とかそんな台詞を。そしてとにかく生き残る大切さを説いてくれる。人類のために、かと思いきや目先にあるたった1つの命のために己を投げ出してしまえる危うさを持った主人公に。
いや、正直なところ主人公云々というよりも単純にそのモットーが好きだと言っておこう。自分の命を1番大切にして何が悪いのか、そもわたしはただの人間なのだから。

イアソンは決して良い奴と呼べるような男ではない、それは敵としての彼と出会う前から思っていたことである。とはいえ、悪い奴でもない。むしろどちらかと言えば良い奴だ。どちらかといえば。

それは実に人間的側面である。わたしは極限の状態にある生き残りの人間たちや、先人の皮を被った英霊たちの中にあって、最も人間らしい人間を彼の中に見出したのかもしれない。つまりは親しみと共感である。彼の在り方を好ましいと感じる限りは、多少難解なこの世界の在り方にも付き合ってやろうと思うのだ。

そしてそんな彼のモットーの中で特に深く肯いたもの、それは「指一本動かさずして勝利がしたい」というものである。

そして話は戻る。
わたしだってしたい。周回はオートに任せてその間は他ごとがしたい。

そもイアソンが我がカルデア(主人公たちのいる基地のことだ)に来た時、主人公が初期に装備している能力(礼装という)とイアソンの持つ能力がほぼ被りであった。そして親密度の低いイアソンはとにかく主人公よりも自分が指揮官に相応しいとも抜かしていた。実際その能力が主人公と被っていたこともあり、こいつには主人公の代理が務まるのではないか?とわたしは本気で思った。当然、ストーリーパートは抜きにして、だが。
いっそイアソンをパーティに編成すれば、オート機能が出現する仕様にしてくれないものか。と、本気で思うくらいには作業的すぎる戦闘に嫌気が差していた。しかしそんな不満もイアソン本人が解消してくれた。曰く、「お前の代わりはいない」

なるほど、なら仕方がない。

未だ「作業」の苦痛が和らいだわけではないが、これをこなさなければ人類は救えない。というか先へ進めない。ステージ的な意味で。

またもやわたしはイアソンに救われたのである。まったく彼がいなければわたしは前回同様にFGOというゲームを早々に投げることになっていたのは間違いない。彼が少し前に実装されていたことと、わたしがFGOをプレイし始めたタイミングは正しく運命的なものと言えた。

さて、わたしのモチベーションの話はこれまでとして、FGO本編の話へと戻ろう。
未だ説明不足に感じる箇所をいくつも残しつつも、さすがに第1部終章までたどり着く頃にはわたしはこのFGOの世界へすっかり惹きつけられていた。キャメロットやバビロニアでは堪え切れず涙もした。明らかにゲームの進行とともにシナリオは磨き上げられ、さながらダイヤモンドの輝きである。ど定番で多少臭くもあるが、最後のステージにこれまでの仲間や敵が駆けつけ、共に戦うという展開も素直に興奮したことを告白しよう。さぁ間もなく本当の本当にラスボスとの対面である…

というところで、


いや、誰だよ!?


いや、本当に誰だよ。下の名前隠し用のアボカドでなく、お前が誰だよ。

プレイヤーであるわたしはこれまでゲームをやってきて、このキャラクターと出会ったことは1度もない。ところが恐ろしいことに"主人公"は出会っているらしく、唐突に出現したこの"プレイヤーにとっては完全に初対面の男"を旧知の仲であるように振る舞い出す。そして彼に続く誰、誰、誰、マジで誰、なキャラクターオンパレード…プレイヤーは完全に置いてけぼりである。

このキャラクターたちがなんであるのか、おそらくはこれまでの期間限定イベントとかで登場したキャラクターたちであろう。このアプリをリリース当初から続けていたプレイヤーにとっては感動の演出だったのかもしれないが、生憎とわたしはそうではない。完全に水を差されて冷えたどころかツンドラ地帯も顔負けの凍りつきようである。

そしてわたしは思い出す、何もFateシリーズを嫌っていたのは元がエロゲーだからとか、偉人に対する敬意がないからだけではないと。このFateシリーズを手がける集団は、同人活動から出発したあの頃と何も変わっていないことが、実のところ気に食わなかったのかもしれないと。
詰まるところ彼らは消費者である大衆のためのものではなく、彼ら自身のための彼ら自身が好きなものを作っているだけに過ぎず、それを他者へと分け与えているだけなのだ。それのどこが悪いのか?悪いわけではない、ただそれを"同人もの"と知らずに手に取った他者が傷付くだけという話だ。そしてわたしはその配慮のなさが気に食わない。

何がエロ要素を排して大衆化された、だ。全く大衆化などされていなかった。だからこそ初っ端から難解な用語を並べ立て、説明も説明の役割を果たさずに話が進むわけである。
なんとかラスボスの最終形態までには気持ちを切り替えることができたが、如何せんもう疲れてしまった。

あの余計な横槍さえなければ全体のシナリオは本当に良かったと思う。今後のストーリーも気になるし、何よりイアソンが活躍するという第2部5章までたどり着けていない。進めたい、と思う。しかし疲れてしまった、色々と。
これまでは猪突猛進にこのゲームを進めてきた、それこそ暇さえあれば、暇さえなくても。だが、これからは1日に1戦闘くらいのペースでも構わないと思う。作業は苦痛で、知らぬ間に主人公はプレイヤーそっちのけで勝手に冒険している。わたしがいなくとも世界は廻る。それでいいだろう。

とにもかくにもこれがわたしの、この数ヶ月間におけるFGO体験である。その体験自体は決して無駄ではなく、得られたものは多かった。
その中で得られた知見の一つが、「人は学ばない」ということだ。


リアルでも、ゲームでも。

ゲームの中では人類史をやり直そうとしたラスボス、ゲーティアを倒した矢先に、今度は別の集団がやはり人類史をやり直そうと立ち上がる。方法は違えど、為そうとしていることに違いはなく、休む間もなくそれに巻き込まれる主人公たちのなんと可哀想なことか。「またかよ!」と叫んでしまうのも致し方なし。
リアルでは、人類は歴史的に何度も恐ろしい感染症に遭遇してきたにも関わらず、未だそれに対処する術をまるで理解していない。今回のウィルスは新型だからなどという理由は存在しない、過去でも大抵のウィルスは始め、新型だったからだ。歴史は繰り返すとはよく言うが、「正に」と言わざるを得ない。

早くどちらにも安寧の時が訪れて欲しいものである。いや、束の間の休息と言うべきか。
気が付けばブログを2ヶ月以上も放置してしまった…先々週に購入したリングフィットアドベンチャーも1週間放置状態である。連日練習していた時は褒めてくれた天の声とミブリさんも流石に呆れ果てていることだろう…合わす顔がない。

さて、だらしない自分のことはさて置き…

ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル・クリスタルベアラー通称FFCCCBが本日で10周年ですよ!!!


FFCCクリスタルベアラーはかの有名なFFシリーズの外伝的立ち位置である「クリスタル・クロニクル」シリーズの最新作!

最新作といっても最早10年も前の話である…。


クリスタルベアラーは2009年11月12日に任天堂の家庭用ゲーム機、Wii専用ソフトとして発売された。当時の日本ゲームとしては珍しく、オープンワールドを意識し、さらにはWiiというハードの特殊機能を存分に使ったとても挑戦的なゲーム…だったと思うのだが、残念なことに商業的には成功したとは言えず、もしやそれ以降にCCシリーズが作られないのは…?と不安に思うくらいマイナーなゲームでもある。まぁ元々CCシリーズは初代を除いてほとんどがマイナーなのだが…。

CCシリーズと言えば、その初代が来年度にリマスターされる。予告映像等を見てもらえればわかることだが、とても牧歌的で幻想的なゲームだ。1人プレイが基本のFFシリーズでは珍しくマルチプレイ推奨であるというのもCCシリーズの特徴と言えるだろう。

ところが、クリスタルベアラーというのはそうしたCCシリーズの「伝統」とも言える要素を完全に取っ払ってしまった作品だ。つまり、現代に近い背景で、1人プレイでのみ遊べるゲームである。多少牧歌的な風景もあるが、どちらかと言えばその世界観は親元のFFシリーズに近い。前述した挑戦的な要素と合わせても、シリーズ内ではとても革新的な作品であったことがわかる。別の言い方をすれば、特異な作品だ。

それが痛手だったのかもしれない。従来のCCシリーズのファンにとっては「これはCCではない」となるし、FFとしては確実にパンチもボリュームも足りない。おまけにWiiリモコンは重く、感度が悪かった。

とにかく操作性が酷いこのゲームは、普段通りのゲームをやる感覚で遊んでいると確実に手首を痛める。そんなことにも構わず丸一日をこのゲームに費やした程には、わたしはこのゲーム、クリスタルベアラーが大好きだ。

そもそもわたしはFFというゲームがどちらかと言えば嫌いだ。キャラクターの育成要素が多く、システムが複雑で覚えるのが面倒くさい。おまけにストーリーが陰湿な上に長いので、少し休むと前回まで何をしていたのかをすっかり忘れてしまう。次は何をすればいいんだっけ?そんな話聞いたっけ?だんだんと嫌気がさして結局は投げてしまう。だからわたしはゲームは一気にラストまで駆け抜けられるか、単調である方が好きだ。そういう意味で言えば、FFよりはドラクエの方が好みである。

しかしCCシリーズは別だ。というよりクリスタルベアラーが例外である。FFというタイトルを見ただけでもうんざりしていた中でも、わたしは絶対にこのゲームをプレイするのだと確信する程にはクリスタルベアラーは衝撃的だった。クリスタルが時を刻むだけの発売前の公式サイトを毎日覗きに行くくらいには虜になっていた。

クリスタルベアラーの何が良いかと言えば、既に述べたとおりに当時の日本ゲームではほとんど注目されていなかったオープンワールドを意識したゲームだったこと、Wiiの特殊機能を存分に使っていたこと、それに加えて洋ドラのような軽快なストーリーと程よいボリューム、ミニゲーム的なアトラクション要素に、魅力的なキャラクターたち…より細かく挙げればきりがない程度にはこのゲームが好きだ。全くもってマイナーである理由がわからない。いや、操作性は確かに酷く、動作も単調なものしかないのは問題なのだが。

そんな作品が今年で10周年。FFキャラが集うスマホアプリ、ディシディアFFオペラオムニア(いつも思うがタイトルに付け加えすぎである)ではそれを意識してか、先々月に引き続きクリスタルベアラーから新たなキャラが参戦した。どうせならこれに止まらず、クリスタルベアラーのSwitchへの移植を行って欲しいものだ。欲を言えば完全リメイクが欲しいのだが。

技術は進化し続けている。ゼルダの伝説BoWは日本のゲーム界にやっとオープンワールドという概念を齎すことに成功した。Joy-Conは軽く、感度が良い。今こそ再来の時ではないか?

帰ってこい、クリスタルベアラー!!!

新しい挑戦はいつだって期待と不安に溢れているものだ。評判の良いカフェに始めて挑むのも、また新しい挑戦だ。
自分は外食をあまりしない。しない理由は金銭的な理由もあるし、選んだ店が自分の理想と違ったらという不安もあるし、1人では勇気が出ないなんて小心なところもあるし。
精々外食するとして、幼い頃から家族でよく行く信頼と実績の、安くて特別美味しいわけでもない近所のファミレスくらいだろう。

けれど外食が嫌いなわけではない。むしろ強い憧れの対象だ。特に日本で最もカフェ文化の発達したこの地域では、行ってみたいお洒落そうな店なんてごまんとある。
しかし自分からとなると、先に述べたハードルが邪魔をして結局は踏み込む勇気など出ないのだ。

夢を叶えてくれる救世主がいる。いつも何処からか(きっと食べログ)お洒落カフェの情報を持ってきて、誘ってくれる友人だ。
滅多に出来ない外食ができるし、憧れのお洒落カフェに入れる。それに決まってこの時は高校の時からの友人たちが揃うので、人生の中で最も楽しみなイベントとなっている。

今回は比較的新しいお店のカフェ・ド・リオンへ行った。フランスをコンセプトとした外観とは裏腹に、まさかのザ・日本の雑多な住宅地にぽつんと佇んでいる店だ。
まさしく隠れ家的でワクワクする店だが、隠れ家の割にはあまりにも人気が高くて激混みの店でもある。そもそも店内が狭いので、混雑もやむなしといったところか。

この店の目玉はなんといっても豪勢なパフェだろう。

見てくれこの…なんだ…なんだこれ、なんて表現すればいいのかわからない。語彙力が足りない。とりあえず…めっちゃ豪華!
写真には1種類しか写ってないが、その他のフルーツのもある。どれも豪華すぎてひっくり返る。

上に盛り付けられたフルーツだけでなく、その下の層もとても凝っている。紅茶ゼリーやらブラッドオレンジムースやら。
ところでこれまで私はパフェというものを食べ切れたことがない。はっきり言って途中で飽きる。元々小食であるし、目の前にこのパフェが来た時は「あ、食べ切れないな」と悟ったものだ。
しかしどうだろうか、いざ食べてみるとどんどんなくなっていく。途中で無理かも、と思ったこともあったが、そんなことはなかった。

そういえばフルーツに限り大量に食べられるのだった。それにバイキング形式で多種を少量ずつならやっぱり食べられるのだった。

人生で1番楽しく食べれて、1番美味しいパフェだったことは間違いない。

いっそ全種制覇したいくらいだったが、流石に2つ目は無理。少し期間を空けてまた挑戦するのがいいのかもしれない。
とは言え、また誰かからの誘いがかからない限りは外食、つまりはこの店を訪れることはないのだろうとは思う。
世界的に有名なキャラクター上位の1人(匹?)、スヌーピーに会いに行きました。

元々「ピーナッツ」の主人公ってチャーリー・ブラウンじゃなかった?飼い犬の方に主役の座を奪われるだなんて、不憫な人ね。

おそらくは作者の意図しない形で人気者へと躍り出たスヌーピー、影の薄くなってしまったチャーリーを想うと、ピーナッツはちょっと残念な作品という印象がある。ピーナッツというタイトルだって、元々作者は嫌ったらしい。
うん、どことなくやっぱり残念な印象だ。そもこの作品群は正直なところ、自分にとって難解な部分が多い。まぁあの時代の漫画はどれも難解だが。

キャラクター人気を抜きにして、ピーナッツ自体を面白いと感じる人は実際どれくらいいるのだろうか。ギャグのネタは解説されるものではないけれど、そもそもピーナッツはコメディなのか?風刺なのか?まずそこからわからない。
コメディと風刺は表裏一体のようなものなので、気にしても仕様がないと思われるかもしれない。しかしピーナッツを読んだ時に、今の話の笑いどころは何処だったのだろうといつも悩んでいる自分にとっては死活問題だ。笑うための作品かも不明だが。

自分にとってピーナッツは、ごくごくありふれた日常の気付きを子どもたちを使って描いている作品だ。それらはあまりにも淡々としていて、漫画にありがちな大袈裟な喜怒哀楽の表現に欠けている。それが良いか悪いかといえば、それがピーナッツらしさなのだと思う。
人の感情を大きく揺さぶるのではなく、ただじんわりと浸透する。「あっ」とするような発見ではなく、「うん、そう、そうだよね」と緩く頷くような出会いの連続だ。

だから正直に言って、このピーナッツというタイトルは的確にその本質を捉えた似合いのものだと思う。
そしてその取るに足らない話こそが、おそらく我々の日常に必要なものだ。身近なものこそ、特に見落としがちであるが故に。
スパイダーマン:スパイダーバースを観た。

親が海外の出身ということもあり、アメコミ文化というのは割と身近にあった方だと思う。
とはいえ日本で暮らしていると供給源の関係上、自分で直接触れるアメコミ界は映画くらいのものだった。

スパイダーマンは2002年に映画化された第1作目とその次作の第2作目しか観ていない。恐らく第3作目も触れる程度に観ているとは思うのだが、記憶にないので実質観ていないと同義だろう。

シリーズものの映画というのは昔から苦手だ。似たような展開の連続で飽きるし、どうあっても続編が第1作目を観たときの「これは新しい!」という感動を超えることがないからだ。

そういう理由から、スパイダーマンもまた私の興味から外れて久しい作品だった。リブート作品であるアメイジングシリーズの評判が上々であることを知っていても、やはり興味は湧かなかった。
そもそもアメコミ界はマルチユニバース至上主義なところがあって、有り体に言えば公式が同人誌化している。わたしはそれが大嫌いで、アメコミ自体に嫌気が指していた。今も苦手意識を募らせている真っ最中である。

それが何故、急にスパイダーマン:スパイダーバースを観る気になったのか。
偏にアニメーションの出来がよいこと、異なる絵柄のキャラクターが一堂に会しているその様子に非常に興味を持ったことが最大の理由だ。

スパイダーバースについては、少しばかりコミックスを遠目程度に見たことがある。たまたま見たページが悪かったのだろうが、みんながみんなスパイダーマンになるというような図が描かれており、当初はその発想に呆れたものだった。
スーパーヒーローというものは、いつだって唯一であるからこそ輝く存在だとわたしは考えている。ヒーロー自体は何人いてもよいが、スーパーパワーを持つヒーローは何人もいては困る。だからスパイダーバースなどというものは全くけしからんと思いを燻らせたものだ。

それが映画化したと聞いたものだから、当然始めはいい印象を抱かなかった。しかし予告を見るとなかなかに面白いアニメーション表現が使われ、ストーリーも惹かれるものがある。だが長年スパイダーマンから離れていた自分は、わざわざスパイダーマンの作品を映画館で観るという選択をすることはなかった。そうして頭の片隅に、あまりイケメンではない壮年のピーター・パーカーの不服気な顔の印象だけが残った。

時は流れ、Twitter上でペニー・パーカーのGIFが溢れる頃。やっぱり劇場で観るべきだったかなぁと思うくらいに映画スパイダーバースへの賞賛が目に付いた。それでも、まぁいつかは観ようというような軽い気分で見送るくらいには興味は薄かった。

さらに時は流れ、その日は全く別の目的でGEOを訪れていた。新作レンタルの棚にスパイダーバースが並んでいるのを見て、そうかもうレンタルが始まったのかと思いながら通り過ぎる。新作のレンタル料は高い、借りる気は起きなかった。
帰りに来店ポイントを受け取ろうとゲオアプリを起動すると、ゲオスという、ネーミングセンスを全く感じさせないポイントがそれなりに溜まっていることに気付く。
ゲオスの使い道はただ一つ、集めて抽選に応募して当たりならクーポンを貰う。抽選制のクーポンだなんて、と不満を覚えつつ他に使えもしないので1番ポイントの消費量が多くて1番当たって嬉しい、すなわち「新作を含むレンタル1点無料」の抽選を行う。

当たるわけがない。と、思っていたら当たったので、「あ」と思わず声を出す。踵を返し、そのまま素早くスパイダーマン:スパイダーバースを手に取ってレジへ向かった。

それが、わたしとスパイダーマン:スパイダーバースの始まりだ。


さて、ようやく作品の感想となるわけだが…はっきり言ってとても素晴らしい!
期待していたアニメーションは然ることながら、テンポの良いストーリーライン、センスの良いユーモアそしてバランスの良いメタ要素。観客を飽きさせる要素が一切ない奇跡の出来栄えだ。いや、奇跡と言うのは失礼すぎる。これは制作陣の並々ならない愛と努力の結晶だ。

当然、この作品を楽しむにはある程度のスパイダーマン知識があった方がよい。あればあるほどこの作品は面白味を増すだろう。自分にとってはドクター・オクトパスが良い意味で衝撃的すぎて、事前知識があって良かったと心の底から思った1番の要素となっている。歴代の作品に裏付けされた固定観念を見事に打ち砕いてみせたその存在は、スパイダーバースのスパイダーバースたる所以そのものを象徴していると言っていい。

ビビットでショッキング、独特の色使いはプロメアが記憶に新しい。スパイダーバースの色使いも負けず劣らず観客に生き生きとした刺激を与えてくれるものだ。
またコミックタッチな描き方は度々挟まれるメタ要素に実にマッチしており、観客をよりこの作品へと没入させる要素となっている。キャラクターたちが第四の壁から飛び出すのではなく、むしろわたしたちが壁を超えて向こう側へと突入するかのような感覚は滅多に味わえるものではない。中にはユニバーサル・スタジオにあるスパイダーマンのライドを思い起こした人もいるだろう。それほどまでにこの作品は観るだけに留まらない"アトラクション"となっている。

ストーリー面では個人的にピーターとマイルズの擬似親子のような関係がとてもよかった。互いに影響を与え、成長または鼓舞する様子は単なる師弟関係でなく、父と子の関係に近い。マイルズと実父、そして伯父との関係も実に良く描かれている。
だらしないかと思われた別ユニバースのピーターは、どんなに腹が出ていてもやはりちゃんとスパイダーマンだというのも見ていて気持ちの良いものだった。
アメコミ界はある程度マンネリ化すると必ずヒーローを落ちぶれさせたがる傾向にある。それこそマンネリというものだ。
あらゆるユニバースのスパイダーマンが言っていたように、何度倒れようとも必ず立ち上がるその姿に我々はヒーローを見る。しかしそれを履き違えた作者たちは、ただひたすらにヒーローを過酷な目に合わせることに固執し始めた。思えばスパイダーマンというヒーローはアメコミ界でも中々に過酷な経歴を持つヒーローではなかったか。それがこの作品ではヒーローが孤独ではないことを見出し、家族との絆を深め、希望に溢れる再出発を描いている。従来の傾向とはまるで異なるものだ。

この映画は従来のアメコミが陥っていたマンネリから見事に脱却し、まさしく理想のヒーロー映画を作るに至った。アニメーション云々以外に、実はそうしたところが高評価の理由なのではないかと考えたりする。
ラストフェスから一夜明けて、まだ結果は確認できていませんが大変満足しております。

どちらの陣営が勝利したとしても潔く結果を受け入れられるでしょう……いや、やっぱりヒメ先輩に勝っていて欲しい。
思えばスプラトゥーン自体は初代の頃に、一年遅れての参戦だった。

WiiUをそもそも持っていなかったので、クリスマスぐらいの時期に発売された同梱版を買ったのだ。初めて自分で稼いだお金で購入したゲーム機だったが、WiiUゲームパッドでの操作が嫌いすぎて、結局最初にちょっとだけ遊び、放置、ラストフェスに最後だし折角だからと参加したくらいだ。

楽しみにしていたのに、操作が不快という壁にぶち当たった自分は理不尽にも、そもそも自分はイカではなくタコ派だし(食料的に)、タコならパッド操作も我慢した、などと文句を言っていたものだ。まさか2になってタコが実際に操作できるようになるとは…。

それでも初代は初代で独自の楽しみ方があった。マップが常にパッドに表示されているので、自分がプレイしている時は妹がマップナビゲーション、妹がプレイしている時は自分がナビという、1人プレイにも関わらず2人プレイの遊び方ができた。
そんな遊び方をしていたので、2になってからはマップ把握に苦労したのはいい思い出だ。

そんなこんなでスプラトゥーンを本格的に遊び始めたのは実質2からという自分なので、思い入れは当然2へのが強い。もちろんシオカラーズよりもテンタクルズのが好きだ。
次作ではまた新しいユニットが案内役になるのだろうと思うと、やはり少し寂しいが、同時に楽しみでもある。あれ、もしや秩序が勝てばテンタクルズは続投だったのか…?いや、そんな馬鹿な。

なにはともあれこの2年間、ずっと楽しみを届けてくれたスプラトゥーン2、そしてテンタクルズの2人には感謝しても仕切れない。もちろん、イカ研究所の皆様方に対してもだ。

ありがとう、そしてありがとう。これからも諸君らの活躍を祈っている。次作でまた会おう。
好みとしてはポストアポカリプスよりもディストピアなので、今回は断然秩序派であると思っていた。
しかしフェス前のテンタクルズの会話を聞いてみると、どうも想像していた前述の内容とは異なっていることに気づく。

未だ見ぬ新境地への前進。何が起こるかわからない、何と出会うかわからない、そんな世界をヒメは混沌と呼んだ。それは未来への希望だ。

揺らがぬ居場所での停滞。今までと同じ、約束された日々がこれからも続く、そんな世界をイイダは秩序と呼んだ。それは現在への安堵だ。

それならば自分は前者の世界を望む。
新しい旅立ちは、いつだって心躍るものだ。

そも自分はヒメ派なので、最後くらいはヒメ先輩に勝ってほしい。いや、ほんと…なんだってこんなに負け続きなのか。
けれど世界観的にはやっぱりディストピア派なんだよなーと、複雑な気分でわたしは今日もインクを撃つのだ。

いっそポケモン商法で2作品出してはくれないか、どっちの「その後の世界」も気になる。
今は遠方に住んでいる友人が帰省したので、2人でプロメアを観に行きました。

なんでも興味はあるけれど、現地元では手軽に行ける映画館がないとのことだったので、じゃあこっちで一緒に行こうと誘った次第。
プロメアは以前も観に行った作品だが、実のところ初回が応炎上映という無謀も過ぎるチャレンジだったため、もう一度静かな環境で見直したいと思っていた。

良い作品は何度観ても良い。名探偵ピカチュウは3回、通常・IMAX・4DXで楽しみ、まだ観たいと強く願っている(金銭的に厳しいので諦めた)。
プロメアも2回目でも十分に楽しめ、さらには公開より1ヶ月以上経っているにもかかわらず映画館の座席がほぼ全席埋まっていることに驚愕。初回とは別種の楽しさを見出せた。

しかし観客の静けさに違和感を覚えてソワソワしてしまったので、やはり初回で応援上映に行ってはダメだな、としみじみと思うのだった。


以下ネタバレ含む
プロメアという作品はその名の指す通りにギリシャ神話における男神、プロメテウスが由来であろう。

プロメテウスの有名な話に「人間に火を与えた結果、ゼウスの怒りを買って磔にされ、生きながらに肝臓を鷲に食われることになった」というものがある。具体的な内容は割愛するが、大まかにはそういう話だ。

ゼウスに命じられてプロメテウスを磔にしたのは権力の神クラトスとその兄弟である暴力の神ビアーである。プロメテウスは不死であるため、その肝臓は何度も再生し、なくなることはない。長い苦しみの末、最終的にプロメテウスはゼウスの息子であるヘラクレスによって救われる。

またプロメテウスには息子がおり、その名をデュカリオンという。
ギリシャ神話の「デュカリオンの洪水」はキリスト教でいうノアの方舟伝説であり、人類に失望したゼウスが大洪水を起こすが、父プロメテウスから事前に情報を得ていたデュカリオンは方舟を作って妻と難を逃れるという話だ。
ちなみにこの洪水の生き残りにはゼウスの息子メガロスやパルナッソス山の頂に逃れたパルナッソスの住民たちもいたそうだ。デュカリオンの方舟もまた、このパルナッソス山に漂着したという。

さて、「火」と「再生」はそのまま劇中のバーニッシュの能力に当てはまり、クレイの方舟計画の名にはそのままパルナッソスが使われている。
デウス博士の「デウス」はラテン語で「神」を意味するので、この場合はギリシャ神話の最高神ゼウスを表しているのだろう。
リオの名はプロメテウスの息子デュカ「リオ」ン、ガロの名はゼウスの息子メ「ガロ」スからと考えられる。同様にクレイとその秘書ビアルはプロメテウスを磔にしたクラトスとビアーからであろう。

その他にも興味深い名称は劇中数多く登場するが、名前だけでなく、劇中ラストでガロデリオンが地球を7回パンチするのは創世神話に基づいているとか、この時の青緑の炎が水、つまりは洪水のようであるとか…とにかくプロメアは神話に関係する描写が多い。

また、ガロとリオが終盤に乗り込む機体デウス・エクス・マキナとはその名の通り機械仕掛けの神のこと。ギリシャ演劇やヨーロッパ叙事詩で度々登場する「ご都合主義」のことであり、収拾のつかなくなった物語を半ば無理矢理に運ぶための常套手段のことである。

象徴を背負う男、クレイ・フォーサイト
作中登場する要素の中で一番複雑怪奇に描かれているモノといえばクレイ・フォーサイトというキャラクターであるように思う。

穏和そうな様子から狂暴性を爆発させる豹変ぶりを見せた二面性も然ることながら、その内面のキャラクター性だけでなく全体的なデザイン性についてもかなり詰め込んでいることがわかる。

まず彼にはとてつもない量の「象徴」が組み込まれている。劇中の舞台であるプロメポリスの象徴として描かれているのは勿論、そうした直接的なものではない隠喩を数多く背負っている。

先に述べたようにクレイという名はプロメテウスを磔にした権力の神クラトス(英読みクレイトス)が由来であろうが、ファミリーネームであるフォーサイトは英語でforesight、つまり「先見の明」「洞察力」の意味であり、これはギリシャ語のプロメテウスと全く同義語である。クレイ・フォーサイトとはプロメテウスを戒める者の名であり、同時に戒められるプロメテウス自身の名なのだ。
ちなみにクレイがプロメテウスと同義であることついては公式のインタビュー記事で明言されている。

クレイのこの相反する要素は彼の二面性に表されるだけでなく、彼のそもそもの行動の動機にも深く関わりがある。このことについてはクレイに声を当てた堺雅人が上手く解釈してくれているので、興味のある人はインタビュー記事などを検索して欲しい。
彼の外見に関していえば、例えば映画パンフレットでは髪型のデザインは王冠をイメージしたと述べられているし、胸元の四角形(体制側)のマークに対角線が入り三角形(バーニッシュ側)を成しているしと、彼がどのような存在であるかを言葉を使わず物語っている。

服装の基調色である白は「神聖」「純潔」「善性」「正義」「平和」などの象徴であり、青いラインは作品のテーマである炎に対して氷の色とも取れる。青は寒冷色であり、冷静さや神秘性を秘めた色、古代では死に関連する色でもあったとされる。
出典は忘れたが、制作陣の話ではクレイのイメージカラーは青だという。燃やさなければ生きていけないのがバーニッシュであるなら、燃やすことなく生きてきたクレイはある種、死んでいたと捉えられるのかもしれない。また、死体を表して氷のようであると言うこともある。
一見するとリオたちマッドバーニッシュの黒と対を成す色合いではあるのだが、その一方でクレイのマントの「裏」地は鮮やかな赤となっている。この赤色というのは、クレイの常に閉じられ隠れている瞳の色でもある。
バーニッシュを非道に扱う体制側の人間でありながら、自身もバーニッシュであることを隠してたのがクレイというキャラクターだ。白と青、氷のような外殻で覆ったその内には、その実燃え盛る炎が宿っていた、ということなのかもしれない。

同様のデザインでいえば、ガロの瞳の色は青であるのに対し、瞳孔の色は赤である。ガロのような異色の瞳のデザインは同じ主人公であるリオにすら見受けらない(一方でリオの色合いも他と大きな隔たりがある)。熱い魂を宿した燃える火消しということなのだろう。

左腕の欠損もまた、左が様々な文化圏で不浄・不吉などのネガティブな象徴として描かれ、キリスト教的には悪魔的な意味合いを持つことから何かしら意図的なものが感じられる。
不浄の象徴である左腕のない表のクレイは、その白い服装と相まってどこまでも清浄な英雄として描かれている。そしてバーニッシュとしての力を解放した際にはその左腕から激しくプロメアの火が吹き出し、リオに悪魔と呼ばれる。この時の悪魔というのはリオにとってはクレイ自身を指すが、クレイにとって、また意図的な描き方として左腕のプロメア=悪魔がこの場面では表されているのではないかと思う。
プロメアで最も象徴的と言える要素である丸・三角・四角の3つの図形も、クレイは網羅している。クレイは回想時の学生時代、この3つの図形が描かれたパーカーを着ているのだ。

この時クレイは体制側の人間でもなければバーニッシュでもない、何者でもないことを意味しているかもしれないし、これからそのいずれかになる可能性を秘めている未分化状態であることを意味しているのかもしれない。イーブイかな?
あるいはその全てを兼ねることを示唆している可能性もある。クレイは丸を象徴とするデウス博士に師事し、三角を象徴とするバーニッシュでもあり、四角を象徴とする体制の頂点に立っている。
ネット上の噂では、彼が身につけているショルダーバッグのベルトがちょうど真ん中の図形を潰し、左右の図形を隔てていることも意味深いとか。
またクレイの象徴的要素はクレイ自身だけでなく、その周囲にも散見される。
例えば彼の本拠地である奇妙な形のビルは逆三角形を形成している。三角形の建造物といえば有名なのはエジプトのピラミッドであろう。ピラミッドの役割については諸説あるが、一般的には王の墓として知られている。クレイの髪型が王冠を模しているならば、この建物はクレイの墓とも言える。
しかし注目すべきはそれが逆さまにあることだ。ピラミットは通説として天へと昇る建造物とされている。それがひっくり返っているのだからクレイは天へ昇るのではなく地へと落ちることを示唆しているとも取れる。実際に彼の方舟は天へ至らず、英雄は地に堕ちた。また、逆三角形という崩壊寸前のアンバランスさは彼自身の内面の反映かもしれないし、三角形に象徴されるバーニッシュに抗っている証明なのかもしれない。

さらにこじつけるならば、このビルはピラミッド以外にも十字架に見えるという説がある。十字架に磔といえばイエス・キリストであり、イエス・キリストといえばメシア、救世主のことである。
劇中クレイは自身が救世主であると宣うわけだが、おそらくはキリスト的な意味合いで使っているのではないかと考えられる。というのも、堺雅人のインタビューにあるクレイの自殺願望を考慮するならば、実に辻褄が合う完璧な方程式がそこに出来上がるからだ。イエス・キリストは人類の罪を背負い、身代わりとして自ら磔となった。磔は即死するものではなく、何時間も苦しむことになる刑罰だ。この構図は非常にプロメテウスのものと似ており、また自ら進んで死へと身を投じるのは、ある種自殺願望とも取れる。この白いビルには一筋だけ赤い線が引かれており、さながら磔となった者から流れ出た血が滴っているかのようでもある。

登場人物の名前がギリシャ神話由来であり、そもそものタイトルがギリシャ神話のプロメテウスから来ているが故にどうしてもギリシャ神話を中心に考えがちであるが、その実この作品にはキリスト教的要素も多くある。
デウス博士のデウスも、ゼウスを由来とするのではなく、そのままキリスト教の神を表しているのかもしれない。現にデウス博士の機体に乗ったガロたちが地球を7回殴ったのは世界を7日で作ったという天地創造の暗喩である説はギリシャ神話でなくキリスト教由来のものである。
クレイの名前がギリシャ語ではなく英語読みで意味を成すのも、パルナッソスの例えにあえてデュカリオンではなくノアを使うのも、デウス博士とクレイはキリスト教側にあることを意味しているのからなのかもしれない。

とはいえプロメテウスは最終的にゼウスの息子に救われる。ヘラクレスとメガロスが同一人物であるかは定かではないが、とりあえずゼウスの息子という存在に救われるのだ。対してイエス・キリストは救われるのではなく、死した後に自力で復活を果たす。それ故にこの物語は結局のところギリシャ神話へと立ち返るしか道はなかったのだろうと思う。そもそもがレスキュー隊員が主人公なのだから、「救出」がなければ締まらないだろう。

ガロは自らを磔にしたクレイを引き摺り下ろすことに成功し、クレイはイエス・キリストではなく、プロメテウスとしての終わりを迎える。プロメアがその身に宿っていた頃ならいざ知らず、ただの人間に復活などできはしないので。

神話の崩壊
制作陣の話では、プロメアという作品を作る際の重要な要素の1つとして、主人公であるガロは人間でなければならなかったという。
主人公とは総じて特殊能力を持つ特別な人々であることが多い。実際にトリガーは自身の作品群を例に、ガロはそうした主人公たちとは異なっていなければならなかったという。

プロメアは様々な神話的要素をふんだんに含んでおきながら、その実既存の概念、神話からの脱却を試みているのではないかという意見がある。
そも火というモチーフは戦争や破壊に結びつけられやすい。劇中はリオたちバーニッシュの境遇への同情からつい忘れがちになるが、実際にプロメアは冒頭にあるとおり、恐ろしい災害として人類を脅かすものだ。それが最終的には地球を救うのだから、プロメアでの火は従来の火が持つ役割から脱却していると捉えられる。
また様々な神話で描かれる大洪水と方舟の関係は、本来は神の行いとして肯定的に受け止められるものだ。それが否定された上で救済が成されているのは神話への冒涜とも言える。

従来の神話とはその名の通り神々が主体となる物語だ。ゼウスの息子の名を冠しながら、ガロは人間でなければならなかったと強調するのは、プロメアという物語が神の役割を否定し人間の手に委ねられるものだと主張する意図があるのかもしれない。

しかし一方でガロデリオンのもたらした青緑の炎は水のような描写であり、大炎上=大洪水は成されたようにも捉えられる。プロメテウスもゼウスの息子=メガロス≒ヘラクレスによった救われたと捉えるなら、その実プロメアの物語は結局のところ神話の域から出られていないようにも思える。
プロメテウスによって神の火が与えられた人間は神へと昇進したという説もある。ガロデリオンは白く巨体で光輪を背負う、さながら神の化身のようである。リオという火を与えられたガロはあの時、神への昇進を果たしていた可能性があるのではないか。

ともすればプロメアは結局のところ、神話をなぞった物語でしかない。真に人間たちの物語が始まるのはプロメテウスの火が取り上げられた後であり、神話からの脱却は劇中ではなく、その後が訪れることでようやく成される。
物語終盤でガロの言う「これからだ」というセリフは、そうした神のいない未来への不安と期待を集約しているとも解釈できる。
ミュウツーの逆襲EVOLUTIONを観ました。

ごくごく正直な感想としては、3DCGデザインすごいキモイなぁということです。

一先ずそれはさておき、結論としてはどんなにビジュアルがキモくとも脚本が同じである以上、得られる感動は然程変わらないということがわかりました。
20年以上前の大好きだったあの作品が、原点と言えるあの作品が、形はどうあれこうして現代に帰って来たことは素直に感慨深い。

大人ばかりがひしめき合う平日早朝の映画館、ボロボロと静かに涙を流す自分。後方からは鼻を啜る音と嗚咽が聞こえる。ガチ泣きじゃん。


追加・改変シーンは何気に自分の中では好印象のものが多かった。これらのシーンがあるために、得られる感動が同等なら元の作品を観ればいいじゃない、とならないのが上手くできている。

しかし元来「ミュウツーの逆襲」が持っていた印象がガラッと変わり、崩れ去ってしまう悪手も勿論あった。特に序盤のジャングル・研究施設・サカキとのシーンは観る者に酷い苦痛を与えるのではないかと思う。キャラの台詞も撮り直しが行われ、当時の印象とは異なった芝居になっているものがいくつかあった。
あの時代、あるいは2D特有の影の表現と言うべきか、明暗の激しいコントラストが損なわれ、全体的に明るく3Dのつるっとした表現で構成された今作はかつてのじめっとした有機的で仄暗い雰囲気が完全に取り除かれてしまっている。これは正直にショックが大きかった。

そして、はっきり言って3DCGデザインが最悪だ。
水、炎、煙、光と影などという要素は本物かと見紛うくらい上出来であるのに、芝生や花、木々などの生命体になった途端に出来の悪いプラスチックのおもちゃのようであるのは何故なのか。
この残念すぎる3DCGの特徴は、人間の造形に特に顕著だ。原作のアニメ調に寄せている一方で、口内から覗く歯はやけに細かく描写されている。個人的に一番気持ち悪い要素はこの歯並びではないかと思う。また、目元から下の顔部分、頰と口の動きがとにかく不快だ。どういったプログラムを用いているのか疑問に思う。
そして悲しいことにポケモンたちのデザインも奇妙なことになっている。ピカチュウの黒目に違和感を覚えるのは自分だけじゃないと思いたい。
3Dになってキャラが動かしやすいのかはわからないが、不自然に無駄な動きも多かった。カートゥーンと勘違いしてはいないか。

と、悪口は尽きないのだが最終的にはそんなことは些細なことだと思えてしまうのだからやはりミュウツーの逆襲という作品は凄い。
エンディングの「風といっしょに」は当然、1枚絵たちもとても素晴らしくて胸が一杯になる。満足して映画館を去ることができるだろう。

ただ、次回も3Dで何かを作るというのなら別のスタジオに依頼した方がいいと切実に思う。
 『海獣の子供』を観ました。個人的にはとても素敵な作品だと思うのだけれど、万人受けする作品ではないことはわかる。
 従来の映画のように、意味のあるもの、メッセージのような何かを期待して観に行った人はすごくがっかりしたのではないだろうか。
 大学生の頃、詩について勉強することがあった。


 詩というものの中には一見して繋がりのないような言葉の羅列だけで作られたものもある。しかし全く何も伝わらないわけではなく、わたしたちはその言葉の羅列に自身の経験やその時の気持ちを投影して何かしらの意味を見出す。そして理解した気持ちになる。

 だがそれは所詮、自分の勝手な解釈に過ぎない。例えば「自然」という言葉を見た時、日本の内陸部で育ったわたしは真っ先に真夏の蒸した空気の中で青々と繁った山々を想起するが、ヨーロッパ出身の作者は涼しい風に波打つ広大な草原を想って詩を書いたのかもしれない。この時すでにわたしはその詩を読み解くのに失敗している。
 作者が草原に横たわり、広い青空について述べた言葉は、わたしの中で形を変えて木漏れ日の中、木々の葉から覗いた数多の青へと様変わりする。空の美しさは変わらないだろう。が、このすれ違いは時に大きな隔たりとなってわたしたちを分断するのだ。

 海獣の子供は言うなれば詩だ。人間が作り出した作品である以上は、人間に理解できる知覚の範囲内の作品であるはずで、作者の生い立ちやその価値観、時代背景を研究してその真意を読み解くことは可能だろう。
 けれど一般の人というものは、詩を読んだ時にそこまで考えよう、理解しようとするだろうか。自分の気持ちを作品に投影し、何かを理解した気になって満足するのではないだろうか。


一番大切な約束は、言葉では交わさない


 ところで言葉は文化に根ざしていると思われがちだが、その実、言葉に文化が根ざしているのではないかとわたしは考えている。

 わたしたちは理解できないものを理解しようとする時、まず言葉にそれを落とし込もうとする。名前を付けるのと同じで、言葉を与えることで初めてそれの正体を確立させることができるのだ。そしてそこから解釈が始まり、事象と事象が結びついて始めて文化となるのではないか。つまり、始めに言葉ありきの世界ということだ。


 しかし言葉は共通ではない。言語が変わると、同じ意味でも中身が異なるなんて現象がしょっちゅうある。ニュアンスの違いというもので、訳した時にそのままだとまず伝わらないものだ。
 逸話で真偽のほどは定かではないが、夏目漱石の「月が綺麗ですね」が例えとしては伝わりやすいだろうか。「I love you」と「愛してる」という言葉は同じであるのに、そのまま訳しても同じ内容で伝わらない。夏目漱石はその伝わりきらない情緒の部分を補完するため、まったく異なる言葉を使うことを選んだ。これは他の翻訳家の間でも同様に行われることで、言葉そのままに囚われず、如何に同じものを共有するかに彼らは重きをおく。

 またバイリンガルの人が異なる言語を使う時、まるで性格が一緒に変わったようであるという話がある。彼らが言うには頭がその言語圏の思考に切り替わっているらしい。それは言語にこそ文化が宿っていることの1つの証明ではないか。
 

 話は再び海獣の子供へと戻るのだが、詰まる所、海獣の子供という作品はそれ独自の言語で持ってわたしたちに語りかけているのだが、それを翻訳するのに十分な言葉をわたしたちの言語は有していないということだ。無理矢理、言葉に当てはめたとして同じものを見ることはできないだろう。


 けれどわたしたちは遠い異国の言葉が奏でるメロディを、内容を理解していなくても好きになるし、そこに何かを見出して感慨に耽ったりする。世の中の全てをわたしたちは理解できないし、理解する必要もない。理解できないことを理解することも時には大切だ。