Fate/Grand Order

気が付けば年が明けて既に春である。
また長いことブログを放置してしまった…。

年明けは散々なもので、新年早々に体調を異なる理由で3度ほど崩していた。よもや厄年ではあるまいな?と思っていたら新型コロナ騒動である。どうやら厄年なのはわたしだけではなかったらしい。

この星が、いや、人類そのものが病に侵されている。
ところで、わたしは昨年末より新しいゲームを始めた。5年程前よりサービスを開始したFate/Grand Order、略してFGOというスマートフォンゲームである。
このFGOというのはFateというゲーム及び映像、その他諸々のシリーズに属する1つの作品だ。Fate自体が誕生したのはおよそ15年以上も前で、当時自分はまだ小学生の身だった。
物心つく頃より個人コンピューターを与えられていたわたしは、ネットサーフィン中にたまたまFateというゲームのオープニングムービーに辿り着き、その格好良さに惚れた。そうしてすぐにFateという作品を調べたわけだが…あれほど大きな後悔もそうそうないと未だに思う。とにかく出てくるエロ絵の数よ!そう、Fateは所謂エロゲだったのだ。

元々自分は潔癖のきらいがあり、ディズニー映画のキスシーンですら見ていられないタイプの子どもだった…Fateが大きなトラウマとしてわたしの記憶に刻まれるのは当然の流れであったわけだ。
あと単純に世界の偉人、聖人と敬われる人々をサーヴァントなどという蔑称で呼ぶ神経が信じられない。servantという言葉は単純に使用人というよりは、奴隷に近い、マイナスのニュアンスを持つ言葉だったと思うのだが…。

つい最近まで、そうした理由でわたしはFateシリーズの作品を極端なまでに嫌っていた。それはFateがエロ要素をなくして、大衆向けのゲームとして世間的に高評価を得るゲームになっても、だ。

「だって所詮は元エロゲーでしょ?」
「偉人たちに変な設定を付けて、他所の文化に対する敬意がないのか」
「史実の男性を女体化するだなんて、馬鹿なの?」

等々…とにかくFateというゲームを見下していた。

さて、そんなわたしが何故Fateを始めるに至ったかである。
わたしがFGOをプレイしたのは今回が初めてではない。いくら嫌っているゲームシリーズとはいえ、周りがあまりにも話題にすれば気になってしまうもので、案外やってみれば印象が変わるかもしれない、やってみてもいないのに嫌うのもよくないとは思うし…そんな思いで数年前にも一度ダウンロードして挑んだことがある。
しかし、初っ端から難解なゲーム内用語の羅列、初めてのゲームシステム、ろくな説明もなされず進むストーリー…これはFate初心者向けではないな?歴代シリーズをやった人にとってはお馴染みの設定なのだろうが、これは余りにも不親切ではないか。わたしはイラッとして早々にゲームを投げた。

さて、それから数年後の昨年末、何故再びこのゲームをダウンロードし、起動に至ったか。はっきり言って気分である。なんとなく、またやってみようか等という、気紛れというか気の迷いというか…余程に暇だったのだと思う。

幸いなことに前回辞める原因の1つであったゲームシステムについては、少し前に始めていたけものフレンズ3が全く同じシステムを導入していたこともあって今回は抵抗なく順応できた。

上がけもフレ3、下がFGOだ。バトルシステムが非常に似ている、というか同じだ。

前回はなかった知識「チュートリアルガチャの当たりはヘラクレス」も役に立った、リセマラをする必要もなく、すんなりと出てきてくれた彼に気分は向上した。思い返せばわたしが前回このゲームに挑んだ時も同じように彼は真っ先に来てくれていたのだ…運命を感じると同時に、前回はその存在を疎かにしたことを申し訳なく思った。「今回は頑張ろう」心の内で小さく溢す。


前回の鬼門であった「こいつら何言ってるかさっぱりわからんし、何が起こってるかもさっぱりわからん」序盤をなんとか乗り切る。道中で状況説明が多少はされるのだが、その説明の中にも難解な語彙やら設定やらが散りばめられているので、置いてけぼり感が拭えないし、とにかく苦痛だ。この序盤を超えても暫くは「どんな銃を握らされているのか全くわからないが弾は撃てる」、そんな状態でゲームを進めることになる。

ある程度ゲームに関する知識が付き、ストーリーも興味深く思えてくる頃、「何故このゲームにはオート機能がないのだろう」という不満が出てくる。
スマートフォンゲームに限ったことではないのだが、素材を集めてキャラクターを育成するというゲームの類はどうしても「作業」というものが付いて回るものだ。特にスマホゲームはシステム上その作業が単調になりやすく、単に面倒くさいだけでなく、場合によってはとんでもない苦痛を伴う。故に作業を伴う大体のゲームはオート機能を備えている。
とはいえ、FGOはマスターと呼ばれるプレイヤーがキャラクターに指示をするのが肝であるようなゲームだ、オート機能は付けたくないのだろう。ゲームがリリースされてから5年間、導入されていないのを見るに制作陣のオート機能を付けたくないという想いは本物だ。

それでも、それでもだ、わたしだって「指一本動かさずして勝利したい」のだ。

唐突にだが、FGOの醍醐味はお気に入りのキャラを育成するところにあるらしい。
わたしはキャラクターに入れ込むことはあまりなく、世界観やストーリーを楽しむタイプのゲーマーなので、その話を聞いたときには首を傾げたものだった。所謂キャラゲーなのだとしたら、どのみちこのゲームは続かないだろうなと、前回と同様に早々に投げる結果になることを予感した。そして2度目の挫折の後に再起はないとも。

しかし運命とは奇妙なものである。前回と今回とで漏れなく駆け付けてくれたヘラクレスに対しても運命を感じたわけであるが、わたしが今回このゲームに再挑戦する数ヶ月前にとあるキャラクターが導入されたことに対して、特に運命の悪戯的なものを感じる羽目になったのだ。

そのキャラクターこそがこいつだ、名前をイアソン。ギリシャ神話の登場人物を元にしたキャラクターで、やたらに羽根が生えているのと背景のせいで天使か何かか?と思われるかもしれないが、口を開けばどっこい、恐ろしい程の小物臭を漂わせるキャラである。実際にゲーム本編において、彼はとあるステージのラスボスとして主人公と対峙するわけだが…いや、この話は置いておこう。そもそもわたしが敵としての彼を知るのはずっと後のことだ。

わたしがイアソンという愉快な男と出会ったのは、チュートリアル終了後、初のガチャの時であったと記憶している。冒頭に述べたように、わたしは最初期のFateのことであれば、キャラクターのビジュアルとその名前ぐらいは多少知っている。その中にギルガメッシュという、金の鎧に身を包んだキャラがいるわけだが、わたしにとってのイアソンの第一印象は「なんだこの劣化版ギルガメッシュみたいなのは」というものであった。
ところでこの時期、FGOの最新シナリオが少し前に配信されており、これの内容がイアソンを主軸にしたものであるらしかった。こちらが何をしていなくとも、Twitter上では度々イアソンに関する呟きが見られ、自然とわたしの中には「イアソンは人気キャラ」という認識が生まれていた。故に彼の何がいいのか、召喚後早速試してみようと早々にパーティに加えたわけであるが…

この男、面白い


というか愉快である。何がってそりゃバトルモーションである。大抵のキャラは1人で戦うもので、例外はあるものの、基本は己が身一つで戦場に出ている。しかしこのイアソンという男、攻撃時に仲間を呼び出すのである。別途武器とかを召喚するのではない、他にユニットとして実際に存在しているキャラを3人ほど呼び出して戦わせている。そして彼本人は実にコミカルな言動でその攻撃に巻き込まれている。こんなの、面白くないわけがない。そして豪華である。

この時点でわたしは大いにイアソンにハマっていた。FGO自体はシリアスなシナリオであり、世界の危機であり、人も死んでいく。この時のわたしはまだそんなシナリオの序盤にいたが、魔の序盤である。シナリオ上における事態の深刻さではなく、このゲームで何が起こっているのがを理解するのにあまりにも苦労させられている深刻さで精神が疲弊している状況である。正直世界の危機などどうでもいい。
そんな中、イアソンのバトルモーションという笑いが提供されたことは、後に事あるごとにワイバーンに妨害され、シナリオが全く進まない苦痛の中でも根気よくFGOを続けるに至る程度には重要な意味を持つ出来事であった。どんな辛い状況でもイアソンがいれば乗り切れる。あの魔の序盤において救いの手を差し伸べてくれたイアソンを、わたしは信じたのである。

イアソンと愉快な仲間たち。ヘラクレスもその一員だ。

イアソンの魅力は何もバトルモーションだけではない。マイルーム会話という、親密度に応じてキャラクターが喋ってくれる機能がこのゲームにはあるのだが、その内容も実に面白可笑しいものであり、そしてやはり救いでもあった。

どの作品においてもそうではあるが、主人公というものは重い使命を背負った者である。それこそこのゲームにおいては、主人公は人類全ての命運を握っている。
どうもこのゲームの主人公はプレイヤーであるわたしとは別に自意識を持っているようなので、その心の内をわたしが測り知ることはないが、実際のところとても正気ではいられない重圧を感じているであろうことは理解できる。人類全てを救おうというのであれば、ただの人間以上の存在に至る必要性を感じることもあるだろう。そう、つまりはヒーローに。人類のための犠牲に、生贄に。必要とあらば己の命を進んで差し出せる者に。
ところがどっこいイアソンは、俗語で言うところの生き汚さを、おそらくはどのサーヴァントよりも誇り、死人の写し身であり人でもない、しかしあまりにも人間臭いというのに英霊である彼は、主人公に向かって言い放つのである。

身を捨てて得られるものはそんなになく、しぶとく生き残ってこその人間だ。お前は英雄ではないのだから、せめてしぶとくあれ。

とかそんな台詞を。そしてとにかく生き残る大切さを説いてくれる。人類のために、かと思いきや目先にあるたった1つの命のために己を投げ出してしまえる危うさを持った主人公に。
いや、正直なところ主人公云々というよりも単純にそのモットーが好きだと言っておこう。自分の命を1番大切にして何が悪いのか、そもわたしはただの人間なのだから。

イアソンは決して良い奴と呼べるような男ではない、それは敵としての彼と出会う前から思っていたことである。とはいえ、悪い奴でもない。むしろどちらかと言えば良い奴だ。どちらかといえば。

それは実に人間的側面である。わたしは極限の状態にある生き残りの人間たちや、先人の皮を被った英霊たちの中にあって、最も人間らしい人間を彼の中に見出したのかもしれない。つまりは親しみと共感である。彼の在り方を好ましいと感じる限りは、多少難解なこの世界の在り方にも付き合ってやろうと思うのだ。

そしてそんな彼のモットーの中で特に深く肯いたもの、それは「指一本動かさずして勝利がしたい」というものである。

そして話は戻る。
わたしだってしたい。周回はオートに任せてその間は他ごとがしたい。

そもイアソンが我がカルデア(主人公たちのいる基地のことだ)に来た時、主人公が初期に装備している能力(礼装という)とイアソンの持つ能力がほぼ被りであった。そして親密度の低いイアソンはとにかく主人公よりも自分が指揮官に相応しいとも抜かしていた。実際その能力が主人公と被っていたこともあり、こいつには主人公の代理が務まるのではないか?とわたしは本気で思った。当然、ストーリーパートは抜きにして、だが。
いっそイアソンをパーティに編成すれば、オート機能が出現する仕様にしてくれないものか。と、本気で思うくらいには作業的すぎる戦闘に嫌気が差していた。しかしそんな不満もイアソン本人が解消してくれた。曰く、「お前の代わりはいない」

なるほど、なら仕方がない。

未だ「作業」の苦痛が和らいだわけではないが、これをこなさなければ人類は救えない。というか先へ進めない。ステージ的な意味で。

またもやわたしはイアソンに救われたのである。まったく彼がいなければわたしは前回同様にFGOというゲームを早々に投げることになっていたのは間違いない。彼が少し前に実装されていたことと、わたしがFGOをプレイし始めたタイミングは正しく運命的なものと言えた。

さて、わたしのモチベーションの話はこれまでとして、FGO本編の話へと戻ろう。
未だ説明不足に感じる箇所をいくつも残しつつも、さすがに第1部終章までたどり着く頃にはわたしはこのFGOの世界へすっかり惹きつけられていた。キャメロットやバビロニアでは堪え切れず涙もした。明らかにゲームの進行とともにシナリオは磨き上げられ、さながらダイヤモンドの輝きである。ど定番で多少臭くもあるが、最後のステージにこれまでの仲間や敵が駆けつけ、共に戦うという展開も素直に興奮したことを告白しよう。さぁ間もなく本当の本当にラスボスとの対面である…

というところで、


いや、誰だよ!?


いや、本当に誰だよ。下の名前隠し用のアボカドでなく、お前が誰だよ。

プレイヤーであるわたしはこれまでゲームをやってきて、このキャラクターと出会ったことは1度もない。ところが恐ろしいことに"主人公"は出会っているらしく、唐突に出現したこの"プレイヤーにとっては完全に初対面の男"を旧知の仲であるように振る舞い出す。そして彼に続く誰、誰、誰、マジで誰、なキャラクターオンパレード…プレイヤーは完全に置いてけぼりである。

このキャラクターたちがなんであるのか、おそらくはこれまでの期間限定イベントとかで登場したキャラクターたちであろう。このアプリをリリース当初から続けていたプレイヤーにとっては感動の演出だったのかもしれないが、生憎とわたしはそうではない。完全に水を差されて冷えたどころかツンドラ地帯も顔負けの凍りつきようである。

そしてわたしは思い出す、何もFateシリーズを嫌っていたのは元がエロゲーだからとか、偉人に対する敬意がないからだけではないと。このFateシリーズを手がける集団は、同人活動から出発したあの頃と何も変わっていないことが、実のところ気に食わなかったのかもしれないと。
詰まるところ彼らは消費者である大衆のためのものではなく、彼ら自身のための彼ら自身が好きなものを作っているだけに過ぎず、それを他者へと分け与えているだけなのだ。それのどこが悪いのか?悪いわけではない、ただそれを"同人もの"と知らずに手に取った他者が傷付くだけという話だ。そしてわたしはその配慮のなさが気に食わない。

何がエロ要素を排して大衆化された、だ。全く大衆化などされていなかった。だからこそ初っ端から難解な用語を並べ立て、説明も説明の役割を果たさずに話が進むわけである。
なんとかラスボスの最終形態までには気持ちを切り替えることができたが、如何せんもう疲れてしまった。

あの余計な横槍さえなければ全体のシナリオは本当に良かったと思う。今後のストーリーも気になるし、何よりイアソンが活躍するという第2部5章までたどり着けていない。進めたい、と思う。しかし疲れてしまった、色々と。
これまでは猪突猛進にこのゲームを進めてきた、それこそ暇さえあれば、暇さえなくても。だが、これからは1日に1戦闘くらいのペースでも構わないと思う。作業は苦痛で、知らぬ間に主人公はプレイヤーそっちのけで勝手に冒険している。わたしがいなくとも世界は廻る。それでいいだろう。

とにもかくにもこれがわたしの、この数ヶ月間におけるFGO体験である。その体験自体は決して無駄ではなく、得られたものは多かった。
その中で得られた知見の一つが、「人は学ばない」ということだ。


リアルでも、ゲームでも。

ゲームの中では人類史をやり直そうとしたラスボス、ゲーティアを倒した矢先に、今度は別の集団がやはり人類史をやり直そうと立ち上がる。方法は違えど、為そうとしていることに違いはなく、休む間もなくそれに巻き込まれる主人公たちのなんと可哀想なことか。「またかよ!」と叫んでしまうのも致し方なし。
リアルでは、人類は歴史的に何度も恐ろしい感染症に遭遇してきたにも関わらず、未だそれに対処する術をまるで理解していない。今回のウィルスは新型だからなどという理由は存在しない、過去でも大抵のウィルスは始め、新型だったからだ。歴史は繰り返すとはよく言うが、「正に」と言わざるを得ない。

早くどちらにも安寧の時が訪れて欲しいものである。いや、束の間の休息と言うべきか。

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