海獣の子供
『海獣の子供』を観ました。個人的にはとても素敵な作品だと思うのだけれど、万人受けする作品ではないことはわかる。
従来の映画のように、意味のあるもの、メッセージのような何かを期待して観に行った人はすごくがっかりしたのではないだろうか。
大学生の頃、詩について勉強することがあった。
詩というものの中には一見して繋がりのないような言葉の羅列だけで作られたものもある。しかし全く何も伝わらないわけではなく、わたしたちはその言葉の羅列に自身の経験やその時の気持ちを投影して何かしらの意味を見出す。そして理解した気持ちになる。
だがそれは所詮、自分の勝手な解釈に過ぎない。例えば「自然」という言葉を見た時、日本の内陸部で育ったわたしは真っ先に真夏の蒸した空気の中で青々と繁った山々を想起するが、ヨーロッパ出身の作者は涼しい風に波打つ広大な草原を想って詩を書いたのかもしれない。この時すでにわたしはその詩を読み解くのに失敗している。
作者が草原に横たわり、広い青空について述べた言葉は、わたしの中で形を変えて木漏れ日の中、木々の葉から覗いた数多の青へと様変わりする。空の美しさは変わらないだろう。が、このすれ違いは時に大きな隔たりとなってわたしたちを分断するのだ。
海獣の子供は言うなれば詩だ。人間が作り出した作品である以上は、人間に理解できる知覚の範囲内の作品であるはずで、作者の生い立ちやその価値観、時代背景を研究してその真意を読み解くことは可能だろう。
けれど一般の人というものは、詩を読んだ時にそこまで考えよう、理解しようとするだろうか。自分の気持ちを作品に投影し、何かを理解した気になって満足するのではないだろうか。
一番大切な約束は、言葉では交わさない
ところで言葉は文化に根ざしていると思われがちだが、その実、言葉に文化が根ざしているのではないかとわたしは考えている。
わたしたちは理解できないものを理解しようとする時、まず言葉にそれを落とし込もうとする。名前を付けるのと同じで、言葉を与えることで初めてそれの正体を確立させることができるのだ。そしてそこから解釈が始まり、事象と事象が結びついて始めて文化となるのではないか。つまり、始めに言葉ありきの世界ということだ。
しかし言葉は共通ではない。言語が変わると、同じ意味でも中身が異なるなんて現象がしょっちゅうある。ニュアンスの違いというもので、訳した時にそのままだとまず伝わらないものだ。
逸話で真偽のほどは定かではないが、夏目漱石の「月が綺麗ですね」が例えとしては伝わりやすいだろうか。「I love you」と「愛してる」という言葉は同じであるのに、そのまま訳しても同じ内容で伝わらない。夏目漱石はその伝わりきらない情緒の部分を補完するため、まったく異なる言葉を使うことを選んだ。これは他の翻訳家の間でも同様に行われることで、言葉そのままに囚われず、如何に同じものを共有するかに彼らは重きをおく。
またバイリンガルの人が異なる言語を使う時、まるで性格が一緒に変わったようであるという話がある。彼らが言うには頭がその言語圏の思考に切り替わっているらしい。それは言語にこそ文化が宿っていることの1つの証明ではないか。
話は再び海獣の子供へと戻るのだが、詰まる所、海獣の子供という作品はそれ独自の言語で持ってわたしたちに語りかけているのだが、それを翻訳するのに十分な言葉をわたしたちの言語は有していないということだ。無理矢理、言葉に当てはめたとして同じものを見ることはできないだろう。
けれどわたしたちは遠い異国の言葉が奏でるメロディを、内容を理解していなくても好きになるし、そこに何かを見出して感慨に耽ったりする。世の中の全てをわたしたちは理解できないし、理解する必要もない。理解できないことを理解することも時には大切だ。
0コメント